肉を噛みたい。

おもにいぬになりたいひとのしをかいてます。

水底のカヌー

1.


あれはいつの出来事だったのだろうか。
りっちゃんと二人であのカヌーを見たのは。

昼と夜が入り交じった空にクタクタに溶けてしまいそうな一艇のカヌーは、まるで私達など、ここに居ないかのようにゆっくり、ゆっくりと空を滑っていった。

「沙希、あれ、乗ったことある?カヌーっていうんだって。あれに乗るとね……」そう言うとりっちゃんは口をパクパクとするだけで何も言わなくなる。次第に、顔もぼんやりとしてくる。

あの時、私はなんて答えたんだったか…。


そう思ったところで、子供の頃から使っている今では少し間抜けな音を鳴らすようになった目覚まし時計が朝を告げた。

夢はいつも同じところで目が覚める。

あの時りっちゃんはどんな表情をしていたのか、何を言っていたのか、何度同じ夢を見ても思い出せないのだ。
夢の続きにあるはずの過去の自分と、りっちゃんを思い出そうと眉間に皺を寄せたまま少し雑に歯磨きをする。やはり、思い出せなかった。
朝は決まってパンをたべるのだが、何故だかこの夢を見た日は大抵いつもより遅く目が覚める。結局何も食べることなく身支度をして嫌いなパンプスを履き会社へ走った。

慌ただしい朝をやり過ごして会社に着くと猫田が「何か懐かしッスねぇ、先輩がギリギリに出社とか」とからかってきた。この猫田という男はそういう男なのだ。何かあると必ず私をからかう。

猫田が入社してきた日、その日もこの夢を見たせいでいつもより遅く起き、この日はあろう事か、二分も遅刻してしまったのだ。しかも自席に着いたのは朝礼で猫田の自己紹介をしているタイミングだった。

あれから猫田は私のことを遅刻魔と思っているようなのだ。私が遅刻したのは後にも先にもその時だけだというのに。

今日は朝から猫田と外回りの予定で尚更遅刻だけはすまい、といつまで経っても慣れないパンプスで走ったおかげでつま先はすっかり瀕死だ。

「猫田さん、昨日の資料準備出来てますか?」

相手が誰であれ、さん付けで敬語を崩さないのが私のモットーだ。それ故に、猫田は私を舐めているが。

「ウッス!出来てるッス」

「じゃあ、行きますよ。」

「ッス」 

猫田はまだニヤニヤしながら返事を寄越した。